……考えさせられたのは、確か長崎だったと思うが、一〇代の子どもたちが、二列に整然と並び、声をそろえて「平和宣言」を読み上げている様子を目にしたときのことである。
おそらく「宣言」の草案は、もともとは学校の授業などで子どもたちに書かせたものを下敷きにしているのだろうが、20人ぐらいの制服姿の生徒たちが一斉に声をそろえて読み上げるものだから、「不戦の誓い」とはまったく無関係に、我が国の管理教育のことが脳裏に浮かび、「あっ、きっとこの文章は先生たちが添削した末に決められたものなのだろうな」とか、「先生の指導のもと、何回も練習したに違いない」などということを、つい思ってしまった。なんだか、あまり自然な感じがしなかったのは残念である。
各地で行なわれた記念式典などで、老いも若きもが「いまのこの平和を噛みしめ」という言葉を当然のことのように繰り返していたが、私としては、「いまの日本が本当に平和だと言えるのだろうか、あの50年前の日本と本当に違うと言えるのだろうか」ということを考えずにはいられなかった。
確かに、いまの日本は戦闘状態になく、そういう意味では、この国は平和だと言えるのかもしれない。しかし、他者の目を気にせずに、各個人が本当に思ったままのことを発言できるかどうかという点において、日本は50年前と変わったのだろうか。 学校では、法的に強制力を持つというわけでもない校則が、その管理者である人たちによって決められ、子どもたちにはそれを自主的な判断で変えていく権利すら与えられていないし、企業においては社員の個人的なメリットなどはまったく無視されて、そのどちらにおいても「全体の利益」が最重視されている。
そして、こうした枠組みから外れた人間には、子ども、おとなの別を問わず、必ずや「制裁」が加えられるシステムが厳然としてある。どこかの学校で、生徒が教師による体罰がもとで亡くなったとか、同級生のいじめが原因で自殺した、あるいは、働き盛りの会社員が過労死したとかいう話を耳にするたびに、私としては、「思ったとおりのことも言えず、行動できず、絶えずまわりの様子をうかがってばかりいなくてはならない日本は、50年前の軍国主義時代と少しも変わっていないのではないか」と思うのである……