……日本における第二次世界大戦の「終戦」のイメージは余りに重苦しく、また、イタリア国民が終戦に際して「祖国のファシズムからの解放」を祝ったのと同じように、日本国民が終戦による軍国主義の終焉を心から喜んだという印象はまったくない。
典型的な戦後、それも高度経済成長期以後に生まれた世代に属する私にしてみると、繰り返し聞かされた「ヒロシマ」や「東京大空襲」の悲惨な話によって、少なくとも「戦争は悪い」ということだけは頭に染み込んでいる。しかし、考えてみると、それも、ひたすら「日本が生き残るためには今後二度と戦争をしてはならない」といったような、なんだか、ずいぶんと自分勝手な思い込みに基づいたものであるような気がしてならない。
私たちは、「悲惨な戦争の犠牲者となったなんの罪もない民間人」としての自己憐憫に近い感情を自らに投影するばかりだけでなく、なぜ日本が戦争へと突き進んでいったのか、なぜ自国民を飢餓にさらし、その人命を軽んじるような状況を押しとどめられなかったのかを、8月15日に向けてじっくり考えなければならないのではないだろうか。
太平洋戦争の終戦記念式典は、今度は舞台を移してアメリカで行なわれることになる。
五月のVE-Dayに関しては、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどの退役軍人らが誇らしげにヨーロッパ各地で行進するなか、アメリカは戦勝祝典ということではなく、もっぱら戦没者の追悼という側面を強調していた。
太平洋戦争終結50周年に際し、クリントン大統領はいったいどのようなスピーチを行ない、それに対して日本の首相はどう答えるのか。その一語一句に固唾をのんで耳を傾ける多くの近隣諸国の人たちがいることを、私たちは忘れるわけにはいかないだろう。彼らは「決して忘れない」のだから……