なぜ、本書のタイトルは『ツルカメ!』なのか? そもそも「ツルカメ」とは、いったい何を表すのか? おそらく、本書を手に取った皆さんはいぶかしく思っておられることだろう。三省堂の『新明解国語辞典』によれば、
【鶴亀】
一、ツルとカメ。長寿なので、めでたいものとされる。
二(感)、縁起直しに言う言葉。「ああ、〜〜 」と書かれている。ちなみに、「感」は感動詞の略で、「 〜〜 」の部分では、「ああ、鶴亀、鶴亀」というように反復して「ツルカメ」という言葉が繰り返されるわけだ。
くしゃみをしたときに、昔の人が「くさめ、くさめ」と言って邪気を払ったのと同じように、「ツルカメ」は、何かゾッとするような話を聞いたり、縁起でもないことが起こったりしたときに、「オオ、怖い。そんなことが起こりませんように」、「ああ、イヤダ、イヤダ、冗談じゃない」といったような気持ちを込めて、呪文のように早口で「ツルカメ、ツルカメ」と唱えるのである。
筆者は、この言葉が現代の日常生活の場で実際に使われているのを耳にしたことは一度もない。
しかし、たとえばテレビの時代劇などで、人の好い呉服屋の小僧などが、お使い帰りにフト見下ろした河原で何やら見慣れぬものを発見し、好奇心にかられて近寄ってみると、それが運悪く「土左衛門(溺死体)」だったなどという場面。驚いた若者が二、三歩後ずさりして「ひえー」と叫び声を上げ、こりゃ大変と番屋へ走っていく道すがら、震える声で「ツルカメ、ツルカメ」と、自らに言い聞かせるがごとくつぶやいているのを目にした経験は幾度かある。
このような場合「ツルカメ」は、打ち寄せる波のように、「ツルカメ、ツルカメ。ツルカメ、ツルカメ」と、延々、繰り返されるのだ。ところで、本書は、月刊『実業の日本』の1994年4月号から1995年12月号まで連載された筆者のエッセイ・コラム、「脳ミソにビタミン!」をまとめて、これに加筆したものである。では、なぜ本書に『ツルカメ』というタイトルをつけたかについてだが、それは、連載を行なっていた1994から1995にかけて日本が置かれていた混沌たる状況が、「ツルカメ」を毎日のごとく連発しなければならないほど災厄に見舞われた不幸なものだったからである。
景気の失速に始まり、住専問題に終わる時期の連載などというのは、まったくもって縁起でもないことこのうえない。しかも、その間には阪神・淡路大震災とオウムという、戦後日本の在り方を根幹から問い直す天災と社会問題があり、さらには、米不足、円高、若者たちの就職難などといったさまざまなイヤなこと、ゾっとすることが起こっている。私の連載も、ほとんど、毎月のように「ツルカメ」を唱えなければならないようなテーマ、内容が目白押しだった。
そして季節は移り変わり、陽の沈むことはないかのように思われてきた日本の円は、一九九五年の秋口から中長期的下落傾向にある。これは、製造業の方々にとっては良き知らせなのかもしれないが、海外旅行でしか贅沢を経験できなかった一般庶民にしてみると、唯一の楽しみまで奪われるような気がして、なんとなく、うすら寂しい思いを抱かずにいられない。
また、日本の消費生活が一般に輸入に大きく依存していることを思えば、時を経ずして原油の値上げ、それにともなう公共料金や交通機関の値上げ、さらには、輸入ウナギや海老、野菜など食品に至るまで、さまざまな生活必需品の値上がりが予想されて、庶民レベルでは、「これで日本経済もひと息つける」ということにはならないだろう。逆に私などは不吉な予感に襲われて、「ツルカメ、ツルカメ」を早口で唱えはじめるぐらいだ。こうして考えてみると、日本経済の好転を祈って、しかも、企業社会に身を置くビジネスマンたちの文化への意識を高めることを意図して一九九四年に始めた私の連載が、終わってみれば経済状態は足踏み状態。それどころか、いままで日本では見られなかった若年層の失業者が増えるというような、新たな問題まで抱えているという、実に八方塞がりの状態で、愛国者を自認する筆者としては、我が日本の行く末を深く愁えずにはいられない。いまの日本が置かれている状況は、まさに「ツルカメ」の力を必要としているのだ。
……というわけで、一見ふざけた響きを持っているように聞こえる本書のタイトル、『ツルカメ!』は、実は、筆者の憂国の想いを体現する、きわめて真面目なエッセイ集なのである。読者の皆さんにも、現代の日本社会が抱えるさまざまな問題を改めて考えつつ、「これ以上悪いことが起こりませんように。ツルカメ、ツルカメ」と、心のなかで、あるいは、声に出して筆者と共に唱えていただきたい。
激動の世紀末を迎える祖国日本。この国の未来に幸あれかしと願いつつ、筆者はきょうもカリフォルニアの青い空の下で、あるいはロンドンの寒空のなかで、ツルカメの力に祈りを托して、「ツルカメ、ツルカメ」とつぶやき続ける……。